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――― 思えばこのお話シリーズは、
囚われの身となっていた瀬那くんの呼びかけへ、
行きずりの剣士だった進さんが
夢の中で関心を寄せたことから始まったんでしたよね。
急を要する事態だからとセナ皇子を独りで先行させ、この場へは後から駆けつけた格好になった蛭魔と葉柱には、何がどういう経緯を経てそうなったのかは想像するしかなかったが。聖なるお立場の御主へ向けて、畏れ多くも凶刃を向けた凄腕の元従者と、そんな彼により大怪我を負わされた、まだまだ幼く非力な主人であったもの。正気を失ったままな騎士殿であったれば、絶対腕力の差だけで十分に、小さな公主様なぞ造作もなく倒されていようものが。がんぜない子供のように泣いて泣いてしゃくり上げてばかりいるセナを、その雄々しき腕へ、広くて深みのある懐ろへと包むように抱き込めて。申し訳ありませんという深い改悛の面持ちでいる…のみならず、ああこの人を失わなくてよかったと、小さな御主と同じ波長の安堵感に包まれてもいる精悍な青年騎士であり。一触即発、当たって砕けているやもしれないと危惧しつつ駆けつけたのに、今やひしと堅く抱き合っている彼らだったりするものだから。こんなまで緊張感の続いた修羅場にあっては、正に“一服の清涼剤”ってところでしょうか。
“俺は大いに気が抜けたわい。”
まあま、蛭魔さんたら押さえて押さえて。(苦笑) 冗談口はともかくも、何となくながら…どういう展開の末にどうなったのかは、二人の導師様がたにも察しもついた。
「カメがああまで懐いているのだしな。」
この急場においては、勇ましき四肢獣に自ら変身して公主様の御身を護っていたはずが、今はその爪も幼き愛らしい仔猫の姿に戻っている聖鳥さん。セナ王子の腕に抱えられたまま、向かい合う騎士殿へ盛んに にあにあと覚束ない鳴き方で話しかけており。相手がいまだ危険な対象であるのなら、勇壮で迫力も満点だった狼や獅子の姿のままでいるはずだから…現況は推して知るべしというところ。
「聖水の剣にはホーミング効果もあったらしいな。」
黒魔導師様が口にしたのは邪悪な気配や性質を浄化する作用のことで。進が既に“闇の咒”の影響を色濃く受けていたのなら、単なる陽咒を浴びた場合、最悪、屠ほふられていたかも知れず。
“ま、それはなかろうなと踏んではいたが。”
くどいようだが、まだ負界からの客人とやらの召喚は果たされてはいないはずで。よって、そこまでの杞憂は抱いてなかった蛭魔ではあったのだけれど。浄化作用というのもまた、装備した使い手の能力や想いの強さに比例して、威力の大きなものが発動されるのであろうから。光の公主様が渾身の力を振り絞って念じたその力、どんな呪いだって抵抗かなわずの雲散霧消、どこぞへ消え失せたに決まってる。
「それを受けた側の意思だって、関わっていようしな。」
「あんの糞ファッキン頑固野郎の意思だぁ?」
向こう側の存在になった途端に、それがなかなか揺るがぬことがどれほど腹立たしかったかというほどもの、厄介極まりない頑迷な人物だったってのに。そんな存在の意思の強さも働いての復活だとする、葉柱のさっくりとした言い分へは。鋭角的な眉をぎゅぎゅうと顰めて、思い切り怪訝そうな顔になった蛭魔であったものの、
「そうは言うが、さっき此処から感じられた聖なる気配は、それほど大層な規模のものじゃあなかっただろうが。」
ずんと距離を離されていたがため、先をゆく二人の置かれた状況がまるきり判らず。そりゃあ気を揉みながら追っていたこちらの彼らを、何事が起きたのだと飛び上がらせた途轍もない気配が確かにあった。だがそれは…葉柱は話に聞いただけ、蛭魔もまた当事者であったがために後から聞いた格好の、セナの公主としての“覚醒”の時の、神聖な、そして壮絶な、力の解放を見せた時のような、
――― 正に“聖なる存在”の目覚めとか降臨とかいう神々しい空気でもって、
あの広々とした空間を圧倒的な光と温みとで満たした何か。
あの桜庭でさえそれまで体験したことがないほどだったと口にしていたほど、そりゃあ荘厳で凄まじかった存在感…という規模のものでは到底なかったと思う。ということは、
「一方的な力圧しでの浄化じゃあなかったってことだ。」
「それはそうらしいが…。」
だとして、も。手放しで喜んでいるらしき葉柱に引き換え、蛭魔としては…ちょいと拍子抜けした感が やっぱり否めない。彼らの絆の勝利ということになるのが悪いとは言わないが、そんな個人的なパワーが勝ってしまうとは。そんな程度のものに、こうまで振り回された自分たちって一体…と、思わないではなかったりもした黒魔導師殿であったりし。けどまあ、一族がどうの因縁がどうのという、大きすぎて曖昧模糊としたものや直接に縁のなさすぎる過去へ忠義だてしてどうするよという反発、実を言えば葉柱に大差無いほど蛭魔もまたも感じてはいたので、
“…まあ、いっか。”
思えば、先の時は“自我の暴走”なんてところまで闇雲に上り詰め、そんな限界へまで追い詰められたことにて覚醒したセナだった。そうまで危険な事態に陥らねば発動されない陽力だというのも、困りものっちゃあ困りものではあり、当人の確固たる意志の下、邪を祓うためだという英断を下して発揮されたものならその方が重畳。こういうのもありかと、何とか納得しかかってはいる黒魔導師さんであり。そんな彼らが見やっていた先、愛しいお互いの体温を確かめ合っているかの如く、しっかと寄り添い合ってた主従二人であったのだけれど。
「あ…。」
それは幼い子供のように、泣きじゃくっていたものが。ようやっと少しずつ落ち着きだして。ふと、はっとしたように、それでもそっと身を剥がし、小さな主人がその身をより小さくして自分の足元へと屈み込む。そこにその輪郭を鈍く光らせて横たわっていたのは、進が自身の延長のようにして自在に使いこなしていたアシュターの守護剣だった。きっとあの瞬間、セナがもはやこれまでかとの覚悟を決めたその時、彼もまた…セナへと向けて、振り下ろすなり横薙ぎにするなり、容赦のない威勢を乗せてこれを振るった筈であり。どれほどまで必死な決意を固めていたとて、セナのように非力で心得もない者の一太刀が長年の鍛練により築き上げられし技に勝ろう筈はないのにと思えば。セナの必死さとそれから、進の心の裡うちにあったもの、曲げられてなるかと最後まで抵抗していた想いとが、何らかの魔性に打ち勝って。その結果として、邪悪な力に支配されていた攻撃なぞ弾き飛ばされてしまったのだろうと思われて。
「あの…。」
がっしりと重い鋼の剣。本当にすっかりと正気に戻ったものだろうかと、まだ疑っていてもいいほどに、さしたる間合いも経ってはいないのに。他でもない自分へと、その凶刃を振り下ろした当人へ、長い差し渡しの左右へ両手を添え、捧げるようにして剣を差し出したセナであり、
「…。」
いくら記憶が飛んでいたとしたって、鞘から抜き出されていたその経緯へくらいは想像力も働こう騎士殿が、そこはさすがに…それへと触れることへ躊躇して見せたものの、両手が塞がったセナ様だと察して、素早く肩の上まで移動していた真っ白な仔猫が、促すかのように“にぃ”と鳴き、剣からそろりと視線を移して見やったセナ自身も、柔らかく笑っていたのに励まされ。壊れ物でも授かるかのように押しいただき、自身の手で腰の鞘へ、その切っ先を収めた進である。そして、
「怖い想いや痛い想いもさせてしまったようですね。」
拒まれても仕方がないと思いつつ、それでも…それをこそ怖がっているかのような、恐る恐るという気配を滲ませて。こちらへと伸ばされた騎士殿の大きな手のひらが、そぉっと頬へと触れたのへ。こちらからも擦りつけるような仕草を見せつつ、ゆっくりとをかぶりを振ったセナ王子であったのだけれど、
「…私が斬りつけたのでしょう?」
彼の視線が留まっていたのは、セナの二の腕に巻かれていたスカーフであり。葉柱が止血を施してくれたそのままになっていたそれは、暗い中にも出血の跡とようよう判る大きな染みに黒く染まっていて、
「あ、えと…でも、これはっ!」
今は何ともないのだし、それにそれに進さんだって今覚えておいででないくらい、さっきは全然 正気でいらした訳でなしと。誰を庇っての弁明なのやら、大慌てで両手を振り回してしまう焦りっぷりが、いっそ平生のペースを取り戻したかのようでもあって。傍観者たちには“やれやれ”という苦笑を誘ったほどだったのだが、
「あ…。」
そんな王子へ、こちらも弁明なんてものは苦手な、やっぱり不器用者なままの騎士殿、自分のいで立ちを少々不慣れな様子で見回してから、おもむろに肩に手をやると、そこに止め具があって端が胸板を交差させてあったらしきマントを外し、向かい合う小さな御主の肩へと掛けて差し上げる。そういえばセナだけは、シャツとベストの上に、丈の短いサテンの室内着という、かなりの軽装でいたので、落ち着いてしまえば何とも寒々しい恰好だったと見えなくもなく。向かい合えば忌ま忌ましい装束でもあったそれだが、身に添わされると…ほのかに愛しい匂いや温もりが伝わり、依然としてその優しい両腕の中、抱かれたままでいるような気さえして。優しい心遣いへとその胸をほわんと温めていると、
「驕っていた部分に付け込まれたようです。」
進はぽつりと呟いた。え?とセナが小首を傾げると、
「セナ様には私が必要なのだと、そんな不遜な想いをどこかで抱いていたらしく。」
羞恥に耐えぬとか悔しいとか不甲斐ないとか、そんな感情にあらためて胸を強く引き絞られたのか、辛そうに目元を曇らせる騎士殿であり、
「そんな驕慢さが隙となり、まんまと相手の意のままになってしまうところでした。」
いやいや、もう結構 意のままになっておいでで、立派な“人間凶器”と化してたところへ私共もそれはそれは難儀させられたんですがと。茶々を入れてやりたくなった…訳でもなかったが、
「相当落ち着いたみてぇだな。」
もういい加減、二人の世界から戻ってもらわねばと思ったか。蛭魔がかけたそんな声へ、今やっと彼らの到着に気づいたらしいセナが…嬉しすぎて泣き出しそうな顔をする。
「蛭魔さんっ、葉柱さんっ! 進さんがっ!」
「ああ。よくやったじゃねぇか。」
大層に驚いてこそやらなかったが、かと言って“今更言われんでも見りゃ判る”などと、きつい言いようをするでなし。これでも気を遣ってやったらしい金髪黒衣の導師様。
「追いつくだけでも大変だったろうに、きっちり目ぇ覚まさせてやるとはな。」
こんな不案内な場所で、しかも正気を失ってた誰かさんを追ってたこの小さな公主様に、介添え役の俺らが追従していなかったこと、今のお前になら“どうしてなのか”も判ろうよと、そんな含みを持たせた視線を放ってやれば。いくら朴念仁でも、コトがコトだし場合が場合。予断を許さぬ叩き合いの渦中にあったのは事実であり、それだけに理解も早くって、
「…公らにも手を焼かせたのだな。」
日頃の生意気無礼な口利きへは彼からもまた“お前”で通しているところだが、今ばかりはそうは行かないと思った進だったらしく。そして、そんな思い入れたっぷりな尊称を使われたことへ、
「公ってのはよせと、いつも言ってようがよ。」
彼なりの不器用な気遣いへ、蛭魔も葉柱も苦笑を見せる。ああそうそう、そういう判りにくい、気配りというのか日頃との区別というのか、持ってくる奴だったよなと、葉柱もまた重ねて言ってやる。そんな彼は口唇の端を真新しい傷で切っていて、明るい色合いの導師服もあちこちを土や泥にて汚していたし。蛭魔もまた…その端正な顔容や真白き手に、明らかに刃による金創らしき怪我を多数負っており、彼らほどの手練れがどれほどの苦戦を掻いくぐって来たのかが容易に忍ばれ。付け入られたとする自惚れとは180度ほど逆の意味から、自分が不甲斐なかったばっかりにセナ様のみならず彼らにまで迷惑をかけたのだと痛感した白き騎士殿。
「…進さん? どうしましたか?」
項垂れてしまったそんな自分を案じてくれる、優しい眼差しに耐えかねて。少しばかり居たたまれないような気持ちになったか、
「………その猫は?」
この彼には珍しくも、話題を変えようと別なところへと関心を向ければ、
「カメちゃんですよ。」
アケメネイで封印を解いてもらったので、木の芽を食べなくても色々な姿へ変身出来るようになったんですよ? 屈託なく笑って応じるセナであり。彼もまた大変な怪我を負っていたはずなのに、それもまた聖水の剣が治癒してくれたのか。いかにも愛嬌のある幼い顔つきのまま、にあと糸のような細い声をしきりと上げて見せている。
「…アケメネイ?」
記憶にない名詞ではなかったため、葉柱の方を半ば反射のようなこととて見やった進だったのへ、
「あ、えと…。皆さんと行って来たんですよう。」
そこで、さっきの剣、聖水の剣を作り出すための水晶もいただきましたし。ああ、そうだ。まだまだいっぱいお話ししたいことがある。こんなことなんて初めてだなあと、そんなことへもむずむずと興奮してしまう。ほんの数日、でも、ひのふの五日も。進さんが一緒に居なかったなんて、これまでなかったことだから。いつもなら同じものを一緒に見ていたから、必要なかったことなんだなって…ちょっぴり感動していたり。初めてのことへの歓喜にまで、子供のような覚束なさを見せるセナであり。そんな稚さがまた、蛭魔や葉柱をくすくすと笑わせていたものの、
「…お。」
そんな彼らの狭間にて、この暗がりの中には目映いくらいの光を放っての自己主張をしたものがある。聖域で聖霊が守りしアクア・クリスタルを御加護ごと鋳込んだ、セナ皇子のための聖水の剣は、護るもの・護る人を間違えることなく、ずば抜けた奇跡を大いに発揮して。健気な皇子の一途な想いが届いてのこと、闇の眷属の手中へと堕ちるところだったのを救われた白き騎士様の、今は左の腕の中ほどへ、姿をすっかりと変えた上でその居場所を落ち着かせている。鏡のような銀色の鋼の上、青を基調にした咒詞の浮彫が何とも美しい、装着型の盾と化して進の左肘へと現れた訳だが。
「カメの怪我を治したらしいっておまけつきで大忙しだった聖水の剣が、元の姿に戻らずそんな変身をしたってことは。」
金髪痩躯の黒魔導師が、いかにも忌ま忌ましげにその鋭い目許を尚のこと尖らせると、肩越しの後方へと窟内の闇を透かし見て。
「まだ続きがあるぞってことだろな。」
蛭魔の睨んだその先には。進がその手から放り出したまま無造作に転がされていた筈の、あの不吉な砂時計が…赤々とした光を放ったまま、音もなく宙へと浮かんでいる。まるでそれ自体が生き物であるかのように、ゆっくりとした拍動を刻んで明滅しながら………。
◇
それは精悍で筋骨逞しく、神々しいまでに鍛え抜かれたその体躯を活かしての、全身全霊の力を拳一点に込めた正拳突きにて。千年どころじゃ済まなかろうほど古くから、この大陸の大地を支え続けた岩盤層の一部。それは堅くて、しかもしかも大地の気脈の最も聖なる主幹流が間違いなく走ってもいるだろう岩脈による窟床を、数回分の連打のみにて見事突き崩してしまった恐るべき豪腕の持ち主は。兄を始めとする同胞の兄様姉様たちが、固い結束の下に一致団結して遂行中の計画へも、これまでそれは素直に準じていた筈なのに。信仰と呼ぶにはあまりに現実と地続きなこと。それだけにただの夢なんかじゃあないことだからと、ただただひたむきに達成を目指して命懸けの精進を重ね。果たせなかったら光の者から滅ぼされてしまうのだという恐怖に苛まれつつ、励まし合っての十数年を、子供たちだけで乗り切って来たその結束の中。ちょっぴり脇道に逸れて他人事でも眺めているよなひねくれた態度を取りつつも、一度だって逆らうような言動を取ったことはなかった彼だったのに。
『………俺らはとんだ道化者だったのだ、兄者。』
遠い過去に祖らが犯せし、殺戮という大罪への枷。そこから我らを解き放つ、聖なる“約束の時”がいよいよ訪れし今。闇の咒の影響を強く受けし我らが一族が、陽咒の力の満ちたるこの大陸に戻りても、安寧に存在せしことへの要となっていただく“闇の太守”を迎えるにあたり、その寄り代となられる“殻器”様がいよいよの覚醒を迎えられんとしているというのに。選りにも選って、我らの祖をこの大陸から離れざるを得なくした“陽白の一族”が後世へと転生させし、陽白の光を束ねし“光の公主”の侍従という立場にあったその彼を。どこまで事情が判っていてのことやら、追って来ていた陽咒の使い手、言わば敵方の面々の手へと再び奪還させぬよう。何としてでも阻止しなければならぬ、そんな正念場の真っ只中だというのに。一体どうして、それもこんな土壇場にあって。その頼もしき拳を咒力を、我らの希望への妨害者方へと向けぬ彼なのか。それどころか、追っ手たちを案内するように同行して姿を現し、彼らを先へと行かせ、寄り代様を追わせた、看過した彼なのか。
「…阿含。」
この世に彼が恐れるものなど果たしてあるのかと、実の兄である自分でも判らぬ知らぬほど屈強にして傲岸で、しかも気性は強かで。味方であればそれはそれは頼もしい存在であり、敵に回したものへ心から同情してしまうほど非情でもある暴れ者。強過ぎて制御を知らず、弱いものには関心がないから“情”というものの意味もよくは知らぬ、冷酷非情の鬼っ子などと。まだずんと幼かった頃から既に、大人たちからさえそんな陰口を叩かれていた弟で。
『これからは、考えるのや先を読むのは兄者に任す。』
俺はただ、好きなだけ暴れるだけに専念するさとしゃあしゃあと言い切り、その言葉通りに振る舞った揚げ句、仲間うちからまで警戒され遠巻きにされるほどの、手加減を知らぬ恐持てへと名を上げてしまった彼であり。皆から一歩離れたポジションに飄々とした態度で立っていながら、だが、ここぞという時は窮地における切り札、いわゆる“飛び道具”となって、自分たちの行動の支えとなってくれてもいた彼ではなかったか。それが、何を今更、妙なことを言い出すのか。同じ空間に、さりげなく同座している亜麻色の髪をした陽白の導師の存在もまた、自分を落ち着けなくさせている要因だったが、
「なあ、兄者。」
不意を衝くような間合いで唐突に口を開いた弟に、この状況を何とか紐解こうとしていた思考を寸断されてしまい。ついのこととて、勘気の強そうな尖った視線を弟へと振り向ければ。長い髪が垂れることで陰に没し、表情どころか目鼻の位置まで判らないその顔を、上げもせぬまま。彼はこうと続けた。
「俺らのすぐ上の兄様姉様たちが、この大陸に渡って来て何年か経ってから、一気に姿を消したことがあっただろうが。」
「………そんなこともあったかな。」
まだまだ幼かった自分たちは、それぞれバラバラに施設へと引き取られたが、そんな彼らへの連絡係であり、自分たちの生まれを誇りを、そして使命を努々ゆめゆめ忘れるなと、事ある毎に吹き込んで吹き込んで、結束を緩めないでいることへ重要な一役を買ってもいた、一足早く社会へ出ていた年長さんたちがいた筈なのに。自分たちがそれ相応の年齢となり、やはり社会へと送り出された頃合い、世間が丁度内乱に混乱していたどさくさに、身を隠すことを兼ねて…集結を約束していた地へと辿り着いてみれば、今此処にいる顔触れのみ、最も若かりし世代の者たちばかりであったのが、彼らにはたいそう意外なことであったのだけれど。
「僧正様は、彼らは皆、逃亡中の側室一派の者だという誤解を受けてしまい、捕らえられたそのまま、追っ手だった王妃の軍勢による皆殺しという憂き目に遭ってしまった…などと語っていたが。」
確かに、当時はこの国も王位後継者を巡る内乱に揺れていた頃ではあったから。そんな悲劇も起きようぞと、心裂かれる想いを抱きつつ、そんな皆様の分も我らが奮起し、一族を再建するのだと団結の気持ち、結束力もなお高まったものだったのだが。
「それは、果たして本当だったのだろうかの?」
「………なに?」
先程から、何を根拠にしてのことか、我らの結束の大元をほろほろと突き崩すような言いようばかりを並べる彼であり。自分へだけは柔らかで暖かな感情を浮かべた声音を向けていたはずの弟が、何という冷たい声を放っているものか。そこにいる陽咒の導師から、何事か良からぬ讒言でも吹き込まれたかと、そこまで思ったが…そんな甘い策に翻弄される彼ではないことくらい、自分が一番知っている。
「…ゴクウが戻って来たと言っていたな。」
そこからして、この期に及んで何を唐突にトンチンカンなことを言い出すかなという強い違和感を覚えた雲水で。
「奴は脱落者だ。グロックスの行方を追っていた最中に連絡が途絶え、仲間だったハッカイやサゴジョーに不意打ちを食らわせて行方を晦ましたのだからな。」
国ひとつ分も残ってはいなかったとはいえ、二桁では足りないほどもの頭数の人間が集まれば、そこには意志の疎通が捗々しくいかない者だって現れようさ。そんな括ったような言いようをする兄へと向かい、
「違う。」
全く動かぬ影のまま、だが、声の張りだけは強くなり、きっぱりとした否定を口にした阿含であり、
「ゴクウは、俺の意向を抱いて皆から離れたのだ。
同じ班にいたハッカイもサゴジョーもサンゾーもそれを知ってる。」
え…っ、と。兄上の息を飲む気配が確かに立って、桜庭もまた話の成り行きに緊張を隠せない。彼らの間にもただならぬ隠しごとがあり、その謎を解くための動きとやらが、主幹だろう人物には内緒のまま、秘やかに進行していただなんて。
「あの混乱の頃には、アンジェリークとかいう側室の生国の陽雨国からも、王宮から逃げ出した彼女を国へと落ち延びさせようとするための人々が秘かに渡って来ておってな。」
阿含の話は訥々と続く。
「そんな人々の中、妙に引っ掛かることを言うた奴がおった。そいつは傭兵で、陽雨国では船団を預かる階級にまで上り詰めてもおったらしいが、ずんと昔に敵国に部下らを置き去りにしたとかで、軍から追放されたんだそうで。その時の戦争で相手国の暗部で要領よくも立ち回ってた奴が、この大陸に居やがるなんてよと、亡霊を見たような気がしたぜと薄気味悪いって話してた。」
満身創痍の身でありながら、それでもこれだけは伝えねばと。それは頑張ってこんな正念場の最中へ…自分を殺めようとした黒幕が控えるところへ、臆しもしないで駆けつけてくれた弟分の意を酌むべく、阿含は低い声を紡ぎ続ける。
「聖職者がかぶるみたいな頭巾の陰に、そりゃあでっかい傷痕があって。
天空から射かけられた矢のような形の古い傷なんだが、
俺がそいつを初めて見たのは、もう50年は昔の話。
命からがら逃げた時のことだから絶対に忘れやしねぇ。
だってのに、
何でまたこの国でも、同じくらいに年食った皺くちゃ坊主が、
まったく同じ傷を頭に抱えてやがるのか。
そんな決まりごとのある宗派がこの国にゃああるのかねぇ…だとよ。」
ちょっとしたフィクション、笑い話でも語るかのように。その口許、両方の端を頬へときつく食い込ませ、淡々と語った彼だったけれど、
「………50年前の話、だと?」
遠い敵地とやらで出会った、その当時に既に結構な年齢だったという人物が。今も同じ傷を抱えてこの国にいると、その老兵は語ったのだそうで。しかも、
「そんな古傷を抱えた坊様には、覚えが大有りだよなぁ、兄者。」
自虐とも取れそうな、それは昏くらい笑い方をした彼へ、
「……………。」
黙したままな兄上の返答は、桜庭の耳へはとうとう届かなかったのが。どれほどの衝撃を彼らに与えた事実であることかを如実に物語ってもいたのであった。
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*いやぁ、進さんが正気に返ったところで、
他でもない書き手が一番に気が抜けてしまいましたが。(おいおい)
主筋はこれからがいよいよの、決着へ向けてのクライマックス。
気を引き締めてかからねばでございます。 |